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うたのむこう

違和感をよく感じて生きています。これだ!って気持ちを大事にしたい。

合唱の発声に感じるひっかかり

発声と声だし

合唱での発声は、誰かが音頭を取って行われることが通常です。今まで何人もの発声を見て(受けて)きましたが、あるひっかかりがあります。

 

ひっかかりというのは表面的には、発声が声だしでしかないように感じられること。

自分自身との身体と向きあうため、メンバーで音色をあわせるため、目指す声へ向けて音色やブレスワークの調整をするためなど、ひとえに発声といっても色々な意味合いがあります。

しかし合唱の発声練習は、ただ声を出すことから抜けられない印象を受けます。

 

個人レッスン

声楽やジャズの個人レッスンを受けると、求める音色のためにどういう音形でどんな言葉を付けるのがいいのか、その場でしばし考える指導者が多い。明確に言葉で示されなくとも、その時の独り言(たいがい歌ってみながら考えている)をきき、自分に何が足りていないかを把握しそれを意識しながら取り組みます。指導者は声から把握できていないことを察すれば、流れは中断され説明(もしくは叱責)が挟まれます。いずれにしてもポイントの共有がなされます。

 

やっぱり複数人相手は難しい

合唱だと指導者は持っているレパートリーを基本とすることが多いです。そしてそれを繰り返しているからか、毎回改めて何のためにそのパターンに取り組むのか説明されることはありません。歌いだしてからも、もちろん個人に対してするような細やかな訂正もなされません。

そうなる背景としては、やはり複数人が相手だと細やかな対応をするのは難しいからでしょう。また合唱団ごとに声の傾向はあっても複数人が合わさった声なので、瞬時に対応を練ることが難しいということも挙げられます。また、場を共有している感覚は途切れやすいために長く滞らせることは難しいからでしょう。

 

歌い手が受け身な発声

その大変な状況の中でも、指導者は自分がやり慣れたレパートリーの中から手早く状況に合わせてメニューを選び、それによって求める声へ変化させようとしています。

しかし声作りが指導者の手の内を出ません。共有が不明確であるように思うのです。そのためか、歌い手が受け身で発声に臨んでいるということが私の引っ掛かりの内実です。

 

合唱は様々な人がいます。練習に来たときにだけ歌うような環境の人がいるかと思えば、毎日のように歌っている人もいます。音楽を学んできた人もいれば、初心者もいます。その多様なメンバーが声を合わせ、音色を作っていく。そこに合唱の特徴があると思います。

音楽的に秀でたものが導くという体制が、どこへ歌いに行っても感じられますが、果たしてそれでいいのでしょうか。引っ張る力が強すぎてはいないでしょうか。他の人は、判断を放り投げてしまってはいないでしょうか。