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うたのむこう

違和感をよく感じて生きています。これだ!って気持ちを大事にしたい。

歌の指導はイメージ先行でいいのか

音楽

イメージ先行の指導

歌の指導において、理論は言外に置かれイメージが先行している場面によくでくわす。

 

腹式呼吸でなぜお腹が膨らむのか?」

「正しい姿勢はどういう姿勢?」

何年も歌っている方たちに投げかけてみても、自分の言葉にすることが出来ない人が、意外といる。

 

身体を動かすとき、人は筋肉ではなく対象の器官がどう動くかをイメージする。例えばタイピングするときは視覚的なイメージをもって指を動かしている。指を曲げたり広げたりする動きをどこの筋肉がになってるかは知らなくたって指を動かせる。

脳はイメージにそぐうように筋肉へ指令をだしイメージを実現させてくれるのだ。

こう考えるとイメージがほとんどを占める指導でも成果を発揮できることに頷ける。

しかし、歌い手個人が成長しているかという点で見ると果たして十分なのだろうかと思うことがある。

 

ここから、歌い手がプロではないが上手くなりたいと思っていて、指導内容は歌い手の技術を伸ばすことに重きが置かれている状況と仮定して話を進めていく。

 

再現性と一般性のあいまいさ

イメージを主とした指導において、再現性と一般性のあいまいさが比較的大きいことを無視することはできない。その場で掴めた気がしても、家に帰ってやってみるとこれでいいのかわからない、ということがよくある。イメージ先行の指導というのは、歌い手に体験を与えるということに近い。得た体験を思い返すことはできるが、そっくりそのまま再現することは難しい。同じイメージを思い浮かべられたとし、脳が同じ指令を出したとしても、身体の状況が同じとは限らないからだ。従って再現性を確立するためには幾ばくかの経験をし、汎用性を育てる必要がある。

 

そして一般性のあいまいさとは、想い描くイメージが同じになることはないということである。例えば「口の中に卵が入っていると思って、口を開けて」というのも、こぶし大、ゆでたまごではなく生卵、などの補足が付けても正確にはならない。もう一つ言えばそのイメージをどう身体に反映させるかが人により違ってくる。

 

イメージが主な指導を否定しているわけではない。歌い手が修正してきた方向性に対し指導者が回答を示すことを繰り返してイメージを体へしみこませていく、という環境がある場合に最大の効果をもたらすものであると実感している。ただ、合唱にはそぐわないのではないかと思うのだ。

また表現についての、指揮者や音楽監督の指導であればイメージが主でいい。そこで行われるのは歌い手から彼ら自身でも引き出せないものを引き出す―歌い手にとっては慣れないものを解放する練習と言えるのだから。

 

自分を知る

歌い手の技術を伸ばそうと思ったら、どんな手が有効だろうか。

私は、まず自分を知ることであると思っている。

 

例えば、筋肉を知ること。

呼吸にどれだけの筋肉が使われていて、それぞれがどんな働きをしているかを知ることが出来る。そうすれば、どの筋肉を使いブレスを扱うかという選択肢が生まれる。

 

例えば、 骨格を知ること。

正しい姿勢を骨格から見ることが出来る。そしてその知識と身体を照らし合わせることにより、感覚で微調整が出来るようになる。

 

自分の身体を楽器だと考えてみるといいかもしれない。上手く使いこなそうとすればその仕組みにかなった使い方をしようとするのではないだろうか。

 

このように脳が描く自分の身体が明瞭になると、それだけ正確に体験を記憶でき再現も容易になる。体験と技術の違いは再現性の有無と考えると、その変化の過程が短くなることは重要なことであると思う。

 

従って、歌い手それぞれの身体へ意識を持って行けるようになるまでの指導は、イメージばかりに頼るのではなく、それをどう身体とリンクさせるのか具体的なところと併せるべきだと思います。