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うたのむこう

違和感をよく感じて生きています。これだ!って気持ちを大事にしたい。

便利の対価は<私>?

今日、電車での帰宅途中に非常サイレンが鳴った。

数分間耳につく音が鳴りっぱなしだった。

 

帰宅時間で乗客率は120%くらい。

多くの人はサイレンが鳴り始めた驚きに顔を上げた。

その後は変わらず携帯を見つめている人が大半だった。

 

 

その中にあって、私は、混乱した。

鳴り続ける非常を知らせる音。

それとは関係ないように日常が続く車内。

歯車が欠けた、おかしな世界に紛れ込んだかのようだった。

 

 

あの大地震のとき。日本人は<和>を持つ人たちだと思った。

他人の気持ちを考え助け合える日本人は捨てたものじゃないと思った。

 

他にどんな象徴的なことがあるかと思いめぐらす。

大雪のときを思い出した。

日本人は他人を想うことができなかった。

我先にと物を買い占める。

 

この違いはどこにあるのでしょう。

相手が身近かどうか、ではないだろうか。

 

地震のとき。

みんなが当事者だった。不測の事態はみんなに突然降りかかった。

日本人が捕らわれている、社会ごとその状況に飲み込まれた。

ショッキングな映像が素早く伝えられ、日本人みんなを巻き込んだ。

人だけでなく社会そのものが当事者となっていた。

 

大雪のとき。

みんなは日常の中にあった。大雪はゆっくりとやってくる。

比較的、もたらされた衝撃は薄かった。

社会は日常を維持しようと働いた。

当事者は直面した人だけにとどまった。

 

人は身近に感じるものにしか、目をとめていられないのかもしれない。

 

 

そして。

再び、歯車の欠けた今日の光景について考える。

現代日本では人々はとっても移動する。

一日に多くの人とすれ違う。

街というコミュニティーは生きていない。

 

昔の<公>は、<私>が研磨される場であり、他者との違いから自分を知る場であったと思う。(現代っ子の私には想像しかできないが。)

 

それに対して今は、<公>は<私>をしまう場であるのではないか。

<公>と<私>の関係性を絶ってしまった。

 

だから、同じ電車に居合わせた人へも無関心。

非常の知らせにも無関心。

 

 

きっと、便利を得た代わりに、<私>を対価に差し出したのだ。

 

 

心そのものを差し出さなかったと考えると、それでいいのかもしれない。

能面のような顔ばかり見るのはさみしいけれど。