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うたのむこう

違和感をよく感じて生きています。これだ!って気持ちを大事にしたい。

「和」

小さなころから「集まり」に漠然とした憧れがあります。

 

調べ物のときなのか、テレビを見ているときなのか、舞台や漫画を読んでいるときに感じたのか・・きっかけはわからないけど、今より少し生を身近に感ているような時代に同じ違和感を抱える者が集まって熱狂的に何かに打ち込む、そんな「集まり」に対する憧れが心に巣食っているような思いがあります。

重要なものは違和感や打ち込むものの中身ではなく、その高みを求める空気感。

 

大学生の頃「さくら横ちょう」を歌った時に、マチネ・ポエティクというキーワードが出てきました。

この運動を知ったときに、さらに私の憧れは一歩深まりました。戦後に詩の新しい形を、外国詩の韻に発想を得て探そうとする運動で外国語の韻と日本語は合致しなかったため確立されることはなかったようです。しかし現状では満足できないと思った者たちが集まって何かを求めて作品を提示しあったり、研究したりする場。そういったものを想像してはうきうきするのです。

 

そしてその後に同人誌という存在を知ります。戦後の文壇で重要な位置にあったそれ。今のそれとは違う響きを持ったもの。同人雑誌ときちんと呼んでみたくなるようなそれに、ほんわか興味が出てくるのです。(以下、昔のそれを同人雑誌と呼びます)

 

人と出会う術が限定的で、また若い夢追い人のうちに触れられるコンテンツも限定的だった。そんな時代には今よりも一つひとつを深く考える時間があったのではないだろうか。

現在の、やりたいことが出来る場はたくさんあり色んな可能性が知っていて、他者との関わりも広く付き合ってから真に親しくなれる人をふるいにかけるような状態。「取り急ぎ」とか「ノリ」とかって言葉を頻繁に耳にする現在とは違い、「吟味」とか「練る」とかって言葉がもっといきいきと人々の心に鎮座していたのではないか。

 

そんなふうな時代的側面がきっと関係する「同人雑誌」と「同人誌」。

「同人雑誌」が「同人誌」となったのは、可能性広がりゆえのであると、腑に落ちないながらもひとつの答えを持っていた。

 

そんななか、こんな文と出会った。

和っていうのは、本当にぎりぎりまで対立した和というのが本当の和であって、このへんでいいかげんに妥協してまるく収めるというのとは、ぜんぜん違うと思うんだ。

大岡信谷川俊太郎『対談 現代詩入門 ことば・日本語・詩』(思潮社2006年)182貢

 

ここには「同人雑誌」と「同人誌」との違いも、私の「集まり」への憧れへの招待も含まれている。

自分ではたどり着けないことに、こうして不意に出会ってしまうのだ。

 

嬉しくもあり、さびしくもある。

 

 

対談 現代詩入門―ことば・日本語・詩 (詩の森文庫)